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「パーミャチ・メルクーリヤ」〔艦名の片仮名表記は、に順ずる。参考文献の選択は、ウィキペディアの出典基準に準拠している。〕(〔今日のでは、 と表記される。〕〔ウクライナ語名では「パームヤチ・メルクーリヤ」、または「パームヤティ・メルクーリヤ」()になるが、たんに翻訳名であって改名されたわけではないのでこのページでは一貫して「パーミャチ・メルクーリヤ」と表記する。〕)は、ロシア帝国が建造し保有した防護巡洋艦(: 装甲甲板巡洋艦)である。黒海艦隊に配備された最初の防護巡洋艦であった。設計上は、装甲甲板巡洋艦の中の特に長距離()に分類される。ロシア帝国海軍のでは当初は 1 等巡洋艦()に分類され、1907年9月27日〔付けの類別法改正で巡洋艦()に類別を変更された。1915年7月15日付けの類別法改正では巡洋艦のままで、その後保有した各国でも巡洋艦に分類した。1921年12月31日には再び 1 等巡洋艦()〔、1923年11月7日には練習巡洋艦()に類別を変更された。1941年6月からは機雷敷設艦()として使用されるようになった〔〔が、正式分類は変更されなかった。 「メルクーリイの記憶」という意味の艦名は、露土戦争で活躍したブリッグを記念したもの〔「パーミャチ」は正教会で「記憶」と訳され、聖人の記憶、生者のための祈り(聖体礼儀など)、永眠者のための祈り(埋葬式やパニヒダなど)で頻繁に出て来る単語であり、祈りを連想させる単語である。記事「永遠の記憶」参照。〕。その活躍により、時の皇帝ニコライ1世は黒海艦隊はその名をもつ艦船をつねに保有すべしと命じた。この巡洋艦がその名を受け継ぐ最後のロシア帝国軍艦であり、かつてそのブリッグが授与されたとを受け継ぐ最後の艦であった〔。 第一次世界大戦では、黒海艦隊には 2 隻しか存在しなかった巡洋艦戦力の中核としてあらゆる種類の任務に投入された。ロシア革命後は、ロシア臨時政府、ウクライナ国家、ロシア・ソビエト共和国、ドイツ帝国、イギリス、白軍などに所有された。最終的にはソビエト連邦に所有されたが、第二次世界大戦中に閉塞船として沈められた。その残骸は、今日まで残っている〔。 == 概要 == === 建造 === 長距離偵察艦「パーミャチ・メルクーリヤ」は、当初は「カグール」()という命名をされていた。この艦名は、 将軍麾下のロシア帝国軍が、露土戦争中の1770年7月21日〔8月1日。〕にで勝利し、オデッサ州に位置する広大なを手中に収めたことを記念して命名される名称であった。「カグール」は、1900年1月9日〔1月22日。〕付けで姉妹艦 3 隻とともに発注された〔。 5 隻建造された「ボガトィーリ」級のうち、「カグール」と姉妹艦「オチャーコフ」が初の防護巡洋艦である「カグール」級を形成した。 「カグール」級は極東向けの長距離偵察艦「ボガトィーリ」の設計を利用した長距離偵察艦であったが、図面の流用は工期短縮を約束するものとはならなかった。「カグール」は1901年5月4日〔5月17日。〕付けで艦船リストに記載され、同年8月23日〔にニコラーエフので起工したが、船台上での工事の最初の段階から遅れが生じ始めた〔。海軍の予算が「極東用の」造船計画へ優先的に充てられたため、「カグール」級に必要な建造資金が回ってこなかったというのが第一の原因であった〔。国有造船所の著しい能力不足も、工事遅延の原因となった。結局、「カグール」級の工事の進捗度は、同時に発注された 4 隻の中で最も遅く11月になって起工した、極東向けの「オレーク」に追い越されることとなった〔。 その後、海軍技術委員会で図面の見直しが行われたことから工事はさらに遅れ、部品の納入が事実上全部納期に間に合わなかったこともまた、そのまま工期の遅れに繋がった。1902年5月20日〔には進水したが、1904年秋に予定されていた主機関の海上試験は冬にずれ込んだ。このように工事が順延された結果、竣工は1905年となった〔。しかし、姉妹艦「オチャーコフ」で叛乱が発生し、黒海艦隊は武力を用いて挙げてこれを鎮圧した。大きな損傷を受けた「オチャーコフ」の修繕工事が必要となり、予算の都合で艦隊装甲艦「チェスマ」のオーバーホールと近代化改修が諦められたほか、工事を早く進めるため「カグール」からは電動舵が「オチャーコフ」へ供出された。電動操舵装置は、修正のためサンクトペテルブルクにある株式会社「ヂュフロン、コンスタンチーノヴィチとコー」の工場へ送られた。しかし、本来「オチャーコフ」よりあとになるはずだった「カグール」の工事スケジュールが、「オチャーコフ」のスケジュールの大幅な遅れにより逆転することになったため、黒海艦隊および黒海港湾総指揮官〔当時の黒海艦隊司令官のこと。〕 G・P・チュフニーン海軍中将は1906年7月、「オチャーコフ」から装置を取り外して修正ののちニコラーエフへ送り、「カグール」へ据え付け直す決定を下した。「オチャーコフ」には、新しい別の器具を装備することになった。当時、艦船に装備する舵の選択が海軍技術委員会の重要な関心事となっていた。件の「ヂュフロン」式装置や、巡洋艦「グロモボーイ」や装甲艦「ポベーダ」に装備したアメリカ合衆国製の装置も含め、それまでに試した 3 種類の電動操舵装置はいずれも不満足なものだったのである。海軍技術委員会は1907年2月12日〔1月30日。〕、バルト艦隊ならびに黒海艦隊へ配備する装甲艦、すなわち「アンドレイ・ペルヴォズヴァーンヌイ」、「皇帝パーヴェル1世」、「エフスターフィイ」、「イオアン・ズラトウースト」に装備すべき操舵装置について結論を出した。レーヴェリにあるの提案した「ヴォーリタ」システムと呼ばれる装置を元に、近代的で簡素な構造を持った電動装置がから提出された。海軍技術委員会はこれを採用したのである。この装置は、バルト工場で開発に当たったフェドリーツキイ技師の名を冠してフェドリーツキイ=ヴォーリタ・システムと呼ばれた。電動駆動装置のための特別な据え付け装置を必要とせず、電動駆動装置は浸水しても稼動する耐水性の装置であった。海軍技術委員会は、「パーミャチ・メルクーリヤ」にこの装置を搭載して試験を行うよう決定した。その結果、「パーミャチ・メルクーリヤ」に戻っていた「ヂュフロン」式操舵装置はまた「オチャーコフ」へ移されることになった〔。「パーミャチ・メルクーリヤ」での試験は、満足の行く成績を残した。舵柄区画には「密閉モーター」だけが設置され、残りの器具と装置は監視するのに適した電源装置の近くに設置することができた〔。 操舵装置や武装、その他の艤装についての設計が転々と変更がされ、工事は遅れに遅れた。1906年11月の時点でまだ武装が決定できておらず、そのため射撃管制装置も艤装できていなかった。搭載すべき蒸気艇は準備できておらず、無線装置とそれを装備する装甲付きの設計決定も遅れていた。 工事はようやく1907年に終わり、「カグール」は受領試験を受けて黒海艦隊へ配備された。工事が行われたニコラーエフから母港となるセヴァストーポリへ回航された「カグール」は、到着直後の3月25日〔4月7日。〕付けで「パーミャチ・メルクーリヤ」へ改称された。同日、元の「カグール」という名が、叛乱を起こした「オチャーコフ」を改称するために転用されたためである。新しい艦名は、同日付で退役した先代の「パーミャチ・メルクーリヤ」から受け継ぐものであった〔。ただ、本来の「カグール」が「パーミャチ・メルクーリヤ」になり、「オチャーコフ」が「カグール」になるという改称はいささかの混乱を齎した。特に、当時の政治上の法令などで「カグール」がどちらを指しているのか混乱が見られた。 「カグール」改め「パーミャチ・メルクーリヤ」は、「ボガトィーリ」級の中で最後から 2 番目に起工し、最後から 2 番目に竣工した艦となった。ただしこれは、 2 番目に起工した「ヴィーチャシ」が火災で焼失し、最後に起工した「オレーク」に追い越され、叛乱事件で破壊されが必要となった「オチャーコフ」を追い抜いた結果である〔。また、この結果「カグール」改め「パーミャチ・メルクーリヤ」が黒海艦隊にとって最初の防護巡洋艦となった。その配備まで、黒海艦隊は近代的な防禦システムを持った 1 等巡洋艦を 1 隻も保有しなかったのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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